昭和43年03月31日 朝の御理解



 御神誡に、「信心する人の真の信心なきこと」とございます。

 最後に、「信心する人の真の信心なきこと」と。沢山信心をする者がありますけれども、本当に真の信心をする人というのは、ごく希である、というね。二代金光様の時に、ある御本部の御大祭に、御霊地を埋め尽くすように沢山に参拝者があった時に、ある先生が四神様に申し上げられた。金光様大した事でありますなぁ。お道がいよいよ繁盛し、発展して、このように沢山な信者が出来て、有り難いことであります。
 おめでたい事でございますという意味であります。したら四神様が仰った。「さぁならこの中に真の信心する者が何人おろうか」と仰った。ね、ご本部を埋め尽くすほどの沢山の参拝者があるけれども、金光様金光様と金光様を唱える信者は沢山あるけれども、さぁこの中に真の信心する者は何人あろうかと仰った。というほどに、やはり真の信心というものはまぁ、難しいのですけれども。
 私はここに一つ思うて頂きたいことは、まぁ真の信心がならずともです。ね、信心、真の信心なきこと、とこう仰る。そこれは信ずる心と書いてある。ですからここんところでね、けど真の信心が出来りゃ、なおさら有り難い。けれども信心する人の、いわゆる信心なきこと。信ずる心のなきこと。というまぁいうならこれをもっともっとみやすうしたところで頂きたい。
 信心をさせて頂いていよいよ神様の間違いなさ、いよいよ神様のお働きの間違いなさを信じさせてもらう。その信ずる力が、ね、信心させて頂いた時にどれほどに出来て来るかという事。真の信心は難しか。真の信心はならずとも。その真一つのかして、信心なき事と仰る。信心する者の信ずる心のなき事。お参りをさせて頂いて、お取次ぎを頂いても、先生が言われることは半信半疑。または疑うて聞かん。ね、
 これではね、「氏子が半信半疑なら、おかげも半分です。疑うて帰ればおかげはない」と仰る。ですから、ここんところの信心をです、私共はどれほどに頂いておるかと、その信ずる心が、そんならどのようなことに繋がって行くかと。これは御理解16節でございます。「無常の風は時をきらわぬというが、金光大神の道は無常の風が時をきらうぞ」と仰ってある。
 これは仏教の言葉ですね「無常の風は時をきらわんというが、金光大神の道は無常の風が時をきらうぞ」と、いわば金光大神の道はですね、無常の風をきらわせる道なのです。ね。仏教的に言えば、無常の風は時をきらわん。無常の風というのはこれは死ぬことを意味したものでしょう。無常の風に誘われて、その無常の風が吹いてきよってもです、それを横の方へ吹きやるだけのものがお道の信心にはあるのだと、ね、
 無常の風が私なら私の方へ吹いてきよるけれどもです、その風をです、横の方へそらす事が出来る。金光大神の道はそういう道なのだ。ね。大した道ですよね。そんならそういう風にです、そらさせる所の道というのは、ね、どこから生まれて来るかというと、今私が(申しますように?)信心する人の真の信心なき事と仰る、信心する人の信心です。いわゆるその信ずる心が、ね、神様を信じて疑わない。
 その信ずる心が無常の風でも右左によけさせたり、止めさせたりする事が出来るのです。ですからもう信ずる心を頂かせて頂くというのは、日々こうやって信心の稽古をさせて頂きよって、ね、初めからそんなにそれこそドンキホーテじゃないですからね。ただがむしゃらにですね神を信じよう神を信じよう。いや神を信じておる信じておるというて、どういう恐いものなしといったような、その生き方ものではない。
 一日、一日信心の稽古をさせて頂いて、なるほど神様の働きの間違いないのに驚くなぁと。なるほどこの五体をです神様が創って下さったというが、なるほどこの神様が創って下さったんだなぁ、このような自由自在のおかげを下さることが出来る神様なのだから、というようにです、日々信心体験から生まれて来るところの、信ずる心がだんだん、だんだん養われて来る。
 信心する人の真の信心なきこと。信心ねこれに真をつけるとまた、おりゃまぁいうなら難しい事になってくるですね。もっともっと。そりゃ真の道を踏んでいかなければ、真の信心はなかなか出来ん。けどもなかなかその、まぁ今日はそこんところを置いて、いわゆる信心なり信ずる心なき事ということ。しかもその信ずる心というのは、どのようなことに、な働きになってくるかという事。ね、
 それが弱いそれが薄い信薄き者。ね、そこんところをですね、いよいよ強化して行く、いよいよ強いものにして行く稽古が信心の稽古というても良いのですよ。ね。これはある先生の、何回もその先生から私話しを聞いたんですけども、ある教会の、そうとうやはり御比礼の立った教会。女の先生。非常にあぁいう霊徳に触れられたんです。触れられた時代があって、一時はやはりご本部参拝が百名もあったというくらい。
 もう最近は、もう本当にご信者さんが少なくなって大祭でも、まぁ二、三十人位集まるというような感じのお広前。それでもやはりなんて言うですかね、まるっきりその教会の信者又弟子達の上に、君臨しておられるという感じですね。まるきり、女王様のような生き方をなさる先生です。けれども信者が助かっておる風はない証拠に信者が一つも増えん。いわばそういう昔のこと私共知りませんけれども。
 最近ではそういうことはないといったような教会。先生が、もうやっぱり八十八。もう七、八年も前だったでしょうかね、大変思い病気にかかられた。その、直ぐ勿論この医薬(ばんな?)を持ち、いわゆる祈れ薬れという生き方の先生なんです。ね、お薬も神様のお恵みとして、まぁ頂くという生き方なです。勿論病院に入院されました。息子さん達が、信心はなさいませんけれども、大変成功しておられます。
 地方に出ても大変有名な、大きな商売をなさったり、大きな、素晴らしいお努めをなさったり、それこそ、おー、知名氏の方の所に娘さんが嫁っておられたといったような教会です。というてその、先生が一人でお広前を守っておられるという教会。まぁそこからを、そのまぁ一つの美談としてお話しを聞くんですけどね。先生が、もういよいよ難しいごたる状態の時に、信者が親教会に毎日毎日ですね。
 毎日じゃない、もうずとそのお参りなさる。一人がお参りをする。帰って来ると又一人がお参りをする。いわばもう連続に、それがその、退院されるまでそれが続いたとこういう。まぁ、24人おれば一日、(ざっと?)参られますね、一時間かかったといたしましても。まぁ一時間がてかからんでしょう。親教会がですね。それで、まぁおかげで助けられたわけなんです。
 本当にいわば、奇跡的に助かった。ほりゃ信者の思い、真心一心。先生の日頃の御神勤のお徳のたまもので、まぁ助かった。けども私は思うんですけれどもですね。私はその助かったというだけじゃいけんと思うんです。ほりゃ助かるということは有り難いことなんですよ。ね、もう医者も見離したというような病人が助かることは、こんな有り難いことないんです。けどもです。
 そういういうならば大変な修行をなさったのですから、ね、死ぬか生きるかというほどの大変な修行をなさったのですから。信者もまたとても普通の、他所の信者では真似の出来んようにです、ね、絶えずずっと親教会にお日参りじゃなくてもう時間参りです。丁度このバトンを渡すような。さぁお参りし終わったら帰ってこられた、次の人がお参りをする、というようにして、しかも相当長い期間を信者がお参りし続けた。
 そういういうなら信者もそういうような、親を思う一心がそういう信心をしたのであるから、親も徳を受け信者も徳を受け。本当にあれを境にあのお広前に又、昔のようなごひれいが輝いてきたというなら、私は合点します。ただ良くなったというだけでしょう。信者がそのために増えたというわけでもない。まぁそれは一つの美談のように、話されますけども、私は美談とは思わない。ただ生命さえ助けてもらえや良い。
 神様はそんな方じゃないんです。ね、死ぬか生きるかということの信心が、いうならば、修行が出来たらです、必ずそこにはね、今までとは違った力というものが与えられておらなければならぬ。信者もそれによって力を受けておらなければならない。その教会にはいよいよごひれい輝かなければならない。はー大したご修行じゃった。死ぬか生きるかということの大変な修行じゃった。信者も一生懸命なら、やはり氏子も一生懸命であった。信者も一生懸命であった。おかげでいわばない生命が助かった。
 いうならば金光大神の道は無常の風を嫌わすところのおかげを受けた。ところが受けただけ。私は何時もここで思うんですけども、お互い様々な一つの難儀、問題というものがございますでしょう。ね、病気あり、経済的な問題あり、人間関係ありです。ね、けどもその問題全てがです、いうなら神愛だということ。ここんところをですね、私は合楽の方達は本当に分ってもらいかんと思う。
 それをね難儀じゃない病気じゃない、人間関係の苦しみだけじゃないそれは神愛なのだと。ね、ここんところがはっきりしてくる所から、どういうことになってまいりますでしょうかね、成程神愛であったなぁとこの難儀に取り組ませて頂いて、その難儀を通してこの様な事が分らせてもろうた、この様に改まらせてもろうた。この様に人間が2人見るように、あの難儀を通して変わらせて頂くことが出来たという時に。
 初めてそれは神愛だったなぁということが分るでしょうが。ただおかげを頂いただけなら。病院だって医者だって同じでしょう。それはやっぱ、病院に行ったらやっぱお医者さんのおかげで薬のおかげでどんどん、よくなって退院して行きよる人がたくさんあるんです。それを同じじゃない。ですかお金払うて、苦しい思いをして。それだけが損ちゅうだけのこと。ところが信心と言うものはね。
 それをそういう、難儀というけれども、それは難儀ではない神愛だと悟らせてもろうて、ね、もうぎりぎり合楽の信心はここんところば分らにゃつまらん。ね。その神愛とそれを悟らせてもらうところにです、どういう神様の願いがあるか、神様の思いがあるかということを分らにゃいかん。ね、そしてその、神様の思いが成就する。私共の言わば信心、信心が一段と進むというか。
 ことによって、そのことによって改まらせて頂く自分にならせて頂くというか。ね、いうなら神様の願いがここに成就するわけなんです。ですから、その難儀を通り超えたその次には、必ずごひれいがある。必ずおかげ、必ずそのことを通して、力を得ておるのでございます。私は金光様のご信心はここだと思う、ね、教祖様をしていうなら、まぁ悲しませておるお言葉だと思うんですよね。
 「信心する人の真の信心なきこと」その今日は、その真を取って、信心する人の信心なきこと。信心する人の信ずる心のなきこと、お前はもう十年も信心しとるぞ。お前は20年も信心しとるのに、まだそのくらいにしか信じていないかという事なんです。しかもその信心という、その信心、信ずる心がどういうことに繋がるかというと、ご理解16節の「無常の風は時を嫌わぬというが、金光大神の道は無常の風がときを嫌うぞ」と時を嫌わせるぞと仰る。そういう道なんです。
 なるほど私はその、教会の例をとりました。ね、まぁこれは本当にそれだけ一生懸命の死ぬ生きるの修行をなさった。信者も一生懸命信心をした。そして、後に残るものは何もなかったとこう、まぁ申しましたがね。まぁこれは失礼な言い方かもしれないですけれども、まぁ私は今日皆さんに分って頂く為にそこの教会の例をとりました。これはもう事実なのですから。ね、
 そんならそいいう信者と先生とが、共に大修行させて頂いたのにも関わらず、その教会のごひれいはどうかということなんです。ね、ただ親子の、例えば、親が病気した時に、子供がこうなからなければならんという、一つの美談にしか過ぎないです。ね。今朝方、私はこういうようなお夢を頂いた。(少しこの?)歯が悪いんです。その歯を両方こう指でつまんでからっとこう、こうこうゆらゆらせずにまっすぐに上にスゥーとこう、ちょっと力入れたらふっとこう大して痛みもせずに抜けたんです。
 歯が抜けたと。と思うてこの、歯を見ところがね、その歯の根がですね、丁度あの糖尿病のね、糖尿病の1番、いや重態なものが出す、尿の色なんです。もう空色の濃いような色、その歯の根が空色している、こう濃い。あら、と思うて私が口をゆすがんならんからそばにあの愛子が、あの二番目の娘がおりますから、あ、お口言われんから愛子ちゃんお水、お水と。口を濯ぎたいと思うって。
 それで愛子がコップに水を汲んで私に渡してくれたその愛子の、この歯がですねもうそりゃ私の家内がですね、若い時にはもう他に綺麗なとこはなかばってん歯だけは見事に綺麗かったです。もう実に綺麗かったです。その家内の歯のようにですもう綺麗な歯並みと、綺麗な歯がこうこちらを振り向いて私にコップを取ってくれる時に歯が見えた。というような夢であった。こりゃどういうようなことであろうか。
 私が、その糖尿病がひどくなったというので、まぁ皆さんが一生懸命お祈りぞえをして下さってある。ある方達は、わざわざ封筒にお届けをなさってから、お取次ぎを願うてから、お願いをして下さってある。昨日なんか菊栄会の方達が、どうでも親先生もうとにかく、もう一時長生きしてもらんならんから、どうでも暫く目を瞑って入院して下さい。もう昨日はもう説得され、何時間がかりで説得を受けました。
 まぁそりゃ総代達にも一遍なら相談をしてからのことにしなさい。あんたどんがというわけばっかりにはいかん。こりゃもう私の体であって、皆さんのいわば体。だからそのあんた達の思いの通りだけにはいかん。思いは分る。そういうような事があっておったかもしれないけれども、今朝私が頂くお夢がです。歯が抜けた。その歯の根がもう、糖尿病の1番悪い色の根元がですね。
 歯に、歯の青い、ははぁこれはまぁいうならばですね、そのままにならなかった。もうゆらゆらでままにならなかった(訳?)それがそのもう根から抜けてしまうという事。いうなら私の体から糖尿病という病気が抜けてしまうということ。私その愛子をお夢の中に使うておられるところにです、ね、愛子とはいわゆる愛しい子と書く。愛しの子と書く。愛子。ここにですね、その○○教会のそれじゃないけれども、ね、
 やはりそのことに対するところの一心の願いと修行がやはり必要じゃなかろうかとこう思う。抜くのは私の力。私で、私が抜く。けども後の水を私に与えてくれる、口を濯がせてくれるのは、まぁいうならまぁ皆さんだというような感じがする。親のことは子が願い。子のことを親が願いという、この願い合いしていくという信心、それもです私共がここに今日分からせて頂きたいことはです。
 私共の信心が真の信心をならすとも、出来てはおらずとも、信ずる心は合楽の人達は強いものを持っている、その信ずる心が百集まり、二百集まってですね。いよいよ私はより改まらせて頂いてです、いうなら全快のおかげを頂かせてもろうて、無常の風が時を嫌わんというけれども、無常の風を、に時をきらわすほどの力になってくる事を神様は願うておられるのじゃなかろうかと、こう私は思うた。
 そういう意味合いにおいてです、ね、ですから親のために子が祈る。ね、折角のその祈りが、又それは皆さんの力にならなければ嘘。又私も、その修行をするからにはです、私の力がそのまま合楽教会のごひれいに一段と、ごひれいに輝きがましてくるおかげを受けなければならない事は勿論。私はそうだと思う。入院さっしゃった。おかげで糖が出らんごつなった、帰ってきなさった。
 その間信者が、まぁいうなら不自由する。昨日ですね、私夕べ遅く出てまいりましてから、お届け張を又、昨日私はそんなわけで、もう無理やりに休ませられて、休んだんです。一日休ませてもろうた。ところがですね、やはり五十名お参りが少ないですよ。私がお広前に出てると、出ていないというのでは。三百、今二、三十名あります。280名あまりしかない。ね、
 いかに神様が、私をここにおいておきたいかというような、思いがいよいよ強ういたします。ね、もうよかよか、もう私はここで頑張る。早死にしたっちゃよか。そういう投げやり的なものじゃない。例えば無常の風が、ね、吹いて来よっても、それを私の信心、又は皆さんの信心、それによってです、その無常の風を例えば嫌わすほどの一つ信の力を持ってですね、おかげを頂きおうて行ったら。
 そこから私は本当のおかげが受けられるのじゃなかろうかと。そしてそういう、一つの難儀ですね。そういう山場ば通り超えたあかつきにです、又一段と輝くごひれいが頂けれれるのだ。ただこれが、例えばただ良くなったというだけのこと一生懸命になったとするならどうだろう。ね、こんなつまらん話はないですよね。それが後の美談になるかもしれません、けどもここでは美談にならん。
 他所の教会でならいら知らず、ほりゃもう子供のために、親のためにこうやって一生懸命信者がなって、一生懸命になった。ようなっただけじゃない、いうならばですね。今日は御神誡の一番最後にあります、「信心する人の、真の信心なきこと」ということを、ね、その真を一つ取って、信心なきことということを聞いて頂いた。
 信心とは、信心する人の信ずる心のなきことという事。ね、ご理解16節にある「無常の風が時を嫌わんというが、金光大神の道は無常の風が時を嫌うぞ」と、ね又嫌わせる道ぞと言うことをです、私共が分らせてもらい、信心させてもろうて。いよいよ、ならこれから一つ真の信心ね、目指して行きたいとこう思うのでございます。
   どうぞ。